千々に乱れる
頭の中を次から次へと過去の風景が湧きあがり、後悔や、自分へのダメ出しが連想のように溢れる時、本当に苦しい。
ああすればよかったとか、調子に乗った図々しい言動を恥じたり、つい、ああ本当に私は馬鹿だ、と口に出てしまう。心中、叱責を自分に向け、気がつくとうめき声を出している。
いくつになっても、ただ歳をとっただけだ。
もうちょっと、腹の決まった落ち着きのある人間になれないものか。
身のこなし、言動に重みのあるしっかりとした人になりたい。
そうでないからそのギャップにいつまでも苦しめられる。
人と仲良くなろうとするとき、一期一会というか一本釣りというか、やはり気合のようなものがいるのだと思う。
ありのままで、天真爛漫、楽しく過ごすだけではやはりダメだ。
自分がまずリラックスして楽しむからこそ相手にも伝わる、というのも本当なのだが、それは、そもそも土台のようなものだのだと思う。
その上の層に、こいつと仲良くなってやる、という狙いを定めた意思がいるはずだ。
狙いがあるから、つい浮き立ち胸に立ち昇るハイな気持ちを、腹にグッと押し込め、相手や状況を冷静にみてより良い振る舞いができるのだろうと思う。
ある意味、その場の「自分の楽しみ」を押し殺すことなのかもしれない。
その意思がなければ、ただ、舞いあがるハイな人と相手に映るだけのことで、年齢が若ければ、それもかわいらしいものだろうが、それなりの歳ならば、人格的に軽い、大した奴じゃない、と判断されても仕方がないかもしれない。
だから、未だ友達が少ないのだろう。
とひととおり反省したならば、次に行うは、
こんなダメダメな自分を許してやることしか無いと思う。
いつまでも心中、自分をなじり続けて良いことはやはり無い。
どんどん、自分への自信の無さが顔・表情に出て、
相手から見て「仲良くなりたくない顔」になるだけのことだから。
ミスをした、自分をなじる愚痴話を誰かに相談して慰めてもらったとしても
心のどこかで、単に表面的に慰めているだけでしょう?と
そのフォローを疑うはずだ。
相談された相手の労力を無駄にする失礼なことだし自分の時間も無駄なのだ。
よし!私が許してやる!
と自分こそが、世界中唯一、本気でフォローできる人間である。
そのために、千々に乱れる気持ちをおさめるため
まず出来る限り無心になる。
くよくよした状態の時って大抵身体が冷たいので、温かい風呂に浸かる。ストレッチして筋肉をほぐしてやる。精神はどうやら身体に支配されているらしく、気持ちもほぐれてゆく。
一番は背筋を伸ばし姿勢を正す。瞑想などして無心になれれば一番良いと思う。不思議と気持ちがフラットになる。
昔の人は、こういう心の嵐に対応するために、
瞑想を発見し「無心」で心を統治してきたのかと気がつく。
だいたいでも構わないので、無心になれ落ち着いたら、
きっぱり、こんな馬鹿な自分だけど許す。
許してやる、と自分に対して発言する。
そうやって、なんとか頑張って生きてゆくこととする。
そして、こんなお馬鹿な自分に時間を割いてくれた相手に素直に感謝の念を送っておく。
次はもうちょっと、うまく出来るようなれるといいんだけどね!