嫌いなことが増えてきた
このごろようやく「嫌い」なことが増えてきた。
大変、喜ばしいことである。
人は歳をとると頑固になる、というから
歳をとった?老けた?という一面も否定しない。
一般的には、歳をとるほど嫌いなものがなくなり心が自由になるらしい。
(と聞いたことがある)そういう良く出来たヒトには関係無い話だと思う。
屈折気味の私にとっては大いに異なるポイントである。
嫌いがあるなら、対極に、好き、がある
好き、の裏側には、嫌い、が存在している
コインも表があって、裏があるので、
陰があるから陽があるので、
片方だけのモノってない。
お日様が照るから、日影があるわけで、
日影ないということは天気は曇り空。
晴れても雨でもない、あいまいな、中途な状態。
おだやかな曇り空も時には良いが
ずーっと曇り空は気が滅入る。
スカッと晴れた晴天が気持ち良い。
スッキリと明確な自分の好みや意思は持っていたい。
嫌いな人なんてあまり居ない、という人は
ちゃんと好きな人や事も無いはず。
「心が広い」という美徳とすり替わっていたと思う。
自分の意思や考えが曖昧な、他人主体な人。
ありがとう~、と連発するハヤリもあるけどほどほどにする。
口に出すほど、たいして感謝しちゃいないだろうと思う。
根底には自分可愛さ。
他人主体な状態なのに自分のことに固執。
自分に固執するわりに、自分と向き合い見ていない。
単に何かを怖がっているだけ。
自分や他人を見つめていない。
自分の好き嫌いもわからない、
他人の気持ちも表層しか捉えられない。
面倒な関わり、と思いがちなのは、そうだからか。
よくわからんことを頑張って共感するふりは疲れる。
めんどくさい~~、が口癖なのはそういうことか。
自我が薄いと無気力にとても苦しむ。
好き嫌い、気持ち・考え、意思 が
ようやく持てるようになってきたのだ、きっと。
嬉しいというより、ホッとした気分。
自覚してた以上に、
自分の興味の幅が狭かったり、
みんなが知っていることが欠落していたり、
理性・計算だけで物事やり遂げることが難しかったり
作ろうと思ってもマブダチがなかなか出来なかったり
それは、自ら閉じて拒否しているから出来ないわけだが、
(と、わかった)
それはそれでいいのだ。
何かに嫌悪する気持ちは本当に大事だ。
ヒトの好き嫌いの度合いが大きく、入口が狭くて構わない。
その感情を持つ自分をしっかり尊重しよう。
他人に自分の軸を奪われないようにしよう。
と思う。
「自分探し」と一緒にされそうだが
全く異なるものだと思う。
表層と根底の違いのレベル。
直視し続けるのは結構な苦しさが伴うので
外野が簡単にいわんといてー!というやつである。
(誰も言ってないか、、)
昔、ある人の言葉
「あなたは何が好きですか?
そのことを良く知っていますか?
それがあなたを動かす力です。」
だいぶ、入口に近づいて来れたかな?と思うこの頃。
麓に着いたか?
と言ったって、まだ山を登る以前のスタートラインマイナス地点だろう。
誠に残念ではあるが、そこまで辿り着いたのだ喜ばしいぞと自分を励ます。